はじめまして!
おゆわりです。
本日はこちらのブログにお越しいただき、どうもありがとうございます!
私は、都内に住んでいるごく普通の2児の母です。
基本情報
・名前:おゆわり
・年代:アラフォー
・家族:夫・小学生2人の子ども
・職業:Webフリーランスとして完全在宅ワーク
・趣味:お酒・ヲタ活
・前の仕事:飲食チェーン店のパート
・好きなスポーツ:ソフトボール
子ども時代:言うなりの人生のはじまり
幼少期~母の他界
生まれは神奈川で、両親と兄と弟の5人家族。
幼少から比較的やんちゃで活発に過ごしていましたが、小学校入学前に両親が離婚。
原因は、ギャンブル好きで定職につかなかった父。
お金が必要なときにしか家に寄りつかない父だったので、いつも泣いていた母の姿を見ていた私は何の抵抗もなかったです。
忙しいながらも休みの日には遊びに連れていってくれたので、何ひとつさみしさはなかった記憶があります。
しかし、小学4年に上がった5月。
仕事に向かった母が夜まで帰ってきませんでした。
母が鍋に作りおいていたカレーをあたためてきょうだい3人で食べて寝床についた私たち。
もう帰ってこないとも知らずに。
家路につく途中、交通事故に遭いこの世を去ったのです。
母の訃報を受け
血相変えて私たち兄弟の住むアパートに来た祖父母の姿は印象に残っていますが、そこからは断片的にしか覚えていません。
ドタバタと転校の準備をして東北の叔母の元へ引っ越し。
ひとつだけ確かなのは、この時から「家のカレーライス」が嫌いな食べ物ナンバーワンになったことです。
育ての母である叔母の言うなりになる
母の死後叔母に引き取られ、叔母の言うなりになった結果、自分の心に蓋をするようになった経緯をお伝えしますね。
元々は明るかったので、東北に越してからも元気でした。
特に兄が精神的に参っていたところもあり、周りを見て気丈になっていた。
ただ、引き取ってくれた叔母とは折り合いが悪く、この頃(小学4年)から思ったことを素直に言えなくなる日々を過ごすように。
彼女の意向に少しでも反すると、何時間も罵声を浴びせ続けることもしばしば。
今の世の中だったら抜け出す術もあったかと思いますが、田舎で情報も入って来ない小学生には当たり前ない状況。
発言や選択は否定され続け、次第に麻痺し諦めるようになりました。
家を出て学校に行っている間に、やっと呼吸ができるような気分。
合間には図書館に通うようになり、本に没頭しているときがホッとする時間だった記憶があります。
高校卒業までの間は多読者賞を毎年もらうほどに熱中していました。
ちなみに、中学までは地元だったので家の事情を知る人もいましたが、高校時代の友人には卒業した後に母がいないことを共有しました。
学校という唯一の自分の居場所に踏み入れられたくないという理由から、周りには両親が当たり前にいる高校の卒業式も、ひとりで終えました。
学生時代:叔母から逃れるために家を出ることに決める
叔母のご機嫌をうかがう学校生活
引き続き叔母の目を気にして、
「叔母が認めるような成績をとる」
「叔母が認める高校」
「叔母が認める大学」
と、自然に叔母の頷く方向を選ぶように。
中学の頃からソフトボール部に所属し、初めて好きなことを見つけて没頭しました
強豪校と呼ばれるまでにレベルも上がっていき、私自身も常にスタメンに入って期待をひしひしと感じていましたが・・・
- 学校に抗議の電話を頻繁に入れる
- 大会当日に閉じ込められ、行かせてもらえない
などといったことがあり、どんどんエスカレートしていったので
という思いから高校の途中で退部。
表向きは無難に過ごし、無難に大学に進みます。
成人式を終えて、家出へ
(家の中では)無難を意識していたものの
20歳を目前にし、限界ギリギリを保っていた私は
と思った私は、成人式をひとつの儀式として終わらせた後に家を出ることに決めます。
急に出るのは不安だったので、あらかじめ契約していたアパートに少しずつ大事な荷物だけをせっせと運び、決行。
上京を決めていたので、資金を貯めるまではアルバイトを掛け持ちして食いつないでました。
大学は目の前の生活で精一杯だったのと
「普通の生活をしている同級生」
を見るのがつらかったので、次第に足が遠のいてそのまま退学を選択。
ひとりになって感じたのは、ものすごい解放感でした。
一方でひとりで生きる不安。
そして精一杯すぎて、ゲッソリ痩せた記憶があります。
会社員時代:上京後、アルバイトを経て会社員に
上京して都内でアルバイトをしていましたが、紹介をきっかけにイベント系人材派遣の会社の事務をしていました。
はじめての会社員で事務仕事に憧れもあったので楽しい日々でしたが、
社長の意向でいつの間にかオーディションに応募されていることもしばしば。
ですが、携帯会社のキャンペーンガールをしたり、家電量販店で販売促進をすることも。
理由は、イベントの派遣に仕事として参加する人は所詮単発のバイトとしか考えていなく、
突然飛ぶ(休む)ことも多かったので
確実でクライアントからもご指名をいただく私があちこちに行く
というようなことも徐々に増えていきました。
言われたままやっていましたが
性格的に様々な場所で働くと疲れてしまうので、徐々に疲弊していき転職を考えるように。
その後は結婚までの7年ほどインターネット広告代理店で広告の営業やポイントサイトの運営や飲食店の社員を経験しました。
結婚生活:義母や夫の言うなりになる
仕事に燃えるが授かり婚で退職
飲食店で社員として多忙な日々を送っていましたが、妊娠が発覚。
押しに押されて付き合っていた当時の彼(現夫)とそのまま結婚する方向に。
いわゆる授かり婚です。
休みのない立ち仕事だったので、現場での仕事は徐々に難しくなり退職を
することになりました。
産後0日で「子どもがかわいそうだから家に居てね」と言われる
妊娠中は不調も多く頼れる家族もいなかったものの、
自分以上に大切にしたい子どもを授かった喜びが大きかったです。
ただ、産後の義母からのひとことでまた「人の言うなりの生活」が始まります。
産後0日に「子どもがかわいそうだから小学校に上がるまでは家に居てね」と言われたことで、子どもとだけ向きあう日々。
当時住んでいたのは、周りに知人もいない群馬。
仕事もできない。
慣れない育児だけど、誰の協力もないから自分にしかできない現実にゾッとしたこともしばしば。
「完璧にしないといけない」とどこかで思い込んでいたので、自分の不出来さに落ち込む毎日でした。
365日ワンオペ育児~夫は呼吸のように転職を続けて愕然
休みの少ない夫からの育児においての協力はなかったので、いわゆるワンオペ育児。
上の子と2歳差でもう一人授かってようやく「子育てはほどほどに抜く技」を覚えてきました。
驚いたのは、勤めている会社で何か不安やすれ違いがあるとすぐに仕事を辞めてしまう夫。
技術は高いのですぐに次の仕事に就きますが
また、すぐに仕事を辞めてくる。
転職回数は、結婚生活10年ちょっとでゆうに30回を超えています
何を言ったところで本人には届かないので
限られた中でも稼ごうと
子どもが幼稚園に上がったときに早朝の飲食店パートを開始。
妊娠~出産を経て6年「育児に専念」という名の無職期間がようやく終わりました。
ワンオペなので、夫が確実にいる時間しか働けずに消去法で選んだパート先でした。
しかし、「消去法」ではあるものの、久しぶりに社会と繋がれたことでホッとできたし、楽しい日々。
ただ、ワンオペ育児だったので、もちろん子どもの不調時に向かえに行ったりするのは私ひとりなのでバタバタでした。
副業開始:人に左右される人生から抜け出す覚悟
しかし、コロナ禍をきっかけに意識が徐々に変わってきます。
と思っていたパート仕事ですが、
客足が遠のいて
働く店舗では時短営業をしたりアルバイト店員の勤務時間が減っていくことに危機感がありました。
副業開始するも、失敗続き
この頃に「在宅でできる仕事があったらいいな」という思いが出てきます。
- パート勤務中に幼稚園や学校から呼び出しの電話がよくある
- コロナ禍は子どもたちが泰樹で身動きとれない
- いつまで続くか分からない不安
- 夫も飲食店勤務だから同じ業種はリスクを感じる
このような理由からパートを続けるよりも、他に選択肢がないものかと模索し始めます。
ただ、やり方も分からなかったので
「在宅ワーク 主婦」
とか
「副業」
といったワードをひたすら調べてみる毎日。
調べていく上でパソコンが必要だと思い、中古のパソコンを購入。
ちなみに、会社員時代にパソコンを使っていたので最低限のスキルはありました。
身近なことから何かやりたくてやってみたことはこちらです。
《数々の失敗》
・メルカリでいらない物を売ってみる
→やりとりが面倒になり、挫折
・ポイントサイトでポイ活
→ちまちまポイントを貯めるのがしんどくなり、挫折
・アフィリエイトブログ
→一度だけ20万超したが、やり続けることに不安を感じて挫折
・Webライター
→低単価な上に家に子どもがいると集中できなくて挫折
・Instagramの画像作成・ライティング
→小分けにして作業ができるのでやりやすかったです
少しずつやっていたものの、こんな不安がありました。
独学では難しいと感じてスクールに入会し、意識が変わる
自分だけでは難しいと感じ、既にうまくいっている人から学びたいと思うようになりました。
自己投資には否定的な夫には意見を求めようともしましたが、今回は誰にもお伺いを立てずに自分でやろうと決断。
スクールではノウハウだけではなく、今後リモートで長く求められる存在になるために必要な考え方を得てきました。
仕事だけではなくて、どんな人生を歩んでいきたいかを改めて考えるいいきっかけに。
向き合ったことのない自分の人生に初めて向き合いました。
今までは自分に自信が持てず、誰かに言われるままでどこかモヤモヤしていた生活でしたが、言われるがままやって来たのも自分だったことに改めて気付いたんです。
・言われるままに学校を選ぶ
・言われるままに働くのを諦める
こういうことをしてきたのは、決断した私。
でも、過去は過去で終わったこと。
誰かを責めてうじうじしたまま人生を終えたくない。
がむしゃらに学習・仕事をして3か月でパート収入超え
副業をはじめた頃より夫から(だらだらYouTubeを見ながら)
「そんなに頑張っていくら稼げるの?」
「それって意味あるの?」
と言われ続けていたのですが
どうにか変えたいという思いは変わらず
- 早朝からのパート前に深夜に学習
- パートの休憩(30分)にSNSの更新や仕事
- スキマ時間をみつけて作業
を継続した結果、最初はSNSの記事作成などの仕事に取り組んだ後
納品の量を増やした努力を認めていただき、
お任せしていただく仕事も増えて
単価アップも実現し
3か月ほどでパート収入を超えることができました。
パート収入超えの後に子どもが不登校に
その後はSNSの運用代行以外にオンライン秘書としてのお仕事に携わり、
2年以上に渡り完全在宅で仕事をしていて
今では会社員くらいの収入を安定して得ています。
しかし、上の子が小4の夏休み以降に学校の行き渋りが始まり、本格的に不登校に。
当時の担任から登校しないことを指摘されたり
家族である夫からも
「この先(上の子は)大丈夫なの?」
と言われ
どう向き合っていくかも試行錯誤。
ありがたいことに、完全在宅の仕事に切り替えていたので時間に融通はききましたが、
それ以外にも私自身が柔軟に考えられるようになっていることに気付きました。
今では子どもの状態を最優先に
オンラインのフリースクールや定期的にカウンセラーと対話しながら向き合っています。
もしパート時代の私だったら
出勤時間に追われたり
周りのの目を過剰に気にして子どもを追い詰めていたかもしれません。
それくらい、自分の変化が困難にも柔軟に対応できるようになりました。
子どもはまだ不登校継続中ですが、手段にとらわれない生き方を模索して本人にとってよい人生にしていけたらという思いです。
さいごに
ここまでのまとめ
過去にどんなことがあってもこれからの人生を変えられる
妊娠・出産でブランクがあっても在宅で安定した収入を得られる
また、私には新たな目標があります。
今後夫の収入に頼らずに、自分の力で子どもを育てていくことです。
心の奥にしまっていたことですが、せっかくの一度きりの人生。
自分の人生をプラスにしていく選択をできる立場になります。
期限は、子どもの理解も得て、3年以内に。
このブログにかけた想いをお伝えしますね。
過去の私と同じように
- 主婦だから何もできないけど何かしたい
- 一時の利益ではなくコツコツ収入を得たい
- 感謝される仕事がしたい
- 子どもにやりたいことをさせてあげたい
- 買い物ひとつで夫や家族の顔色を伺うのをやめたい
- できれば夫以上の収入を得て自立したい
と考えている方の参考になればと思い、今までに完全在宅ワークを実現した方法を発信するために、このブログを始めることにしました。
皆さんがもし私のやり方を参考にして新たな挑戦をしようとした時、その道しるべとなるためにこれからも発信していきます。
また、私自身がこの先も自分の人生を諦めずに進んでいく過程もお伝えしていくので、励みになったらうれしいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました!